not「頑張れ」but「頑張る」

 「頑張る」というと、なぜだか「365歩のマーチ」という昭和中期の水前寺清子さんの歌を思い出します(完全に昭和のオヤジです)。その歌詞の中に、「3歩進んで2歩下がる。」という一節があります。1歩進むためには3歩分の努力は当然必要なんだと歌ったこの曲が一世を風靡したのです。

 ボクなんかは気がつくと1歩も進んでないのに、3歩くらい後退してしまっていると気づくことが日常なので、退くことなど考えることなく前進を続ければ必ず前に進めると歌ったこの人生の応援歌を耳にしたりすると、日本が一丸となって頑張り、高度成長期を形成したあの昭和40年代、自分だけが周りのスピードに取り残されてしまうような不安にもがいていた青春時代を思い出したりします。

 そんな高度成長期も終焉を向かえ、1990年以降のバブル崩壊を契機として始まった長きに渡る失われた時代を這いずって来た日本は、一時的なブームかもしれないアベノミクスによってもたらされた消費税増税を端緒としたインフレのスタートに、一部の持てる人たちは多少浮かれ始めています。しかしながら、われわれ庶民の生活の実態は依然厳しいままです。1歩前進するために、3歩どころか何十歩という頑張りが必要らしいという蟻地獄のような恐ろしい状況はずっと続きそうです。

 しかしながら、厳しさが続く世の中でも、いやそんな厳しい時代だからこそ、希望や夢を持つことが大切だと気づきます。あのアウシュビッツにおいてさえ、その過酷な日々を生き抜かせたのは強い運とそれにも勝る夢や希望に対する強い思いだったようです。

 「夢」とか「希望」などという綺麗な包み紙に包まれていなくても、何かを手にしたいと思ったときには、結果や周りの声などを気にしないでがむしゃらにその目標に向かって打ち込む突き進む強い気持ちが必要だと思います。この行動を「頑張る」と言うのでしょう。主体的に「頑張る」ことはとても素晴らしいことです。

 しかし、自分以外の人にかける「頑張れ」という言葉はどうでしょう。「ウツ」の人には「頑張れ」という言葉は決して掛けてはいけないようです。確かに、気持ちがどん底にある人に対して掛ける「頑張れ」という言葉ほど、無神経かつ鋭利な刃物を突きつけるような響きを持つエールはなさそうです。

 一方、病に苦しんでいる人ではなく、一つの目標を持つ人に対しては、「頑張る」という言い方がもしダメなら、「全力でぶつかる」とか「精一杯に取り組む」と言い換えたとしても、とにかく目標を達成するためには、少し背伸びをしなければ届かないものを取りに行くという姿勢や意志は時代や状況にかかわらず、絶対に必要なのだろうと思うのです。

 詳しくは知りませんが、聞き流すだけで英語が話せるようになるという英会話の学習システムがあるそうですが、この類のメソッドは個人的には全く信じることができません。聞き流すという楽な方法では乗り越えられないいくつものハードルが、語学(だけではありませんが)を習得する際には必ず立ちはだかります。でも、それは超えることのできないハードルではなく、主体的に「頑張って」取り組むことで一つずつ克服することができるのだと思います。

 ボクは、以前勤めていた大学でご一緒させていただいた、尊敬する故・石井米雄先生さんから「僕は常に何かのビギナーでいたい。」とお聞きしたことがあります。どんなに優秀な方でも、またある道を極めた方でも、常に謙虚で真摯な姿勢でいるためには常に初心者として取り組む何かがあったほうが良い、というお考えだったと思います。そんなことを思い出しながら、何かに主体的に「頑張って」取り組んでいない自分を反省している今日この頃なのです。