「教えない」という指導

 個人指導や個別指導を行っていますと、つい必要以上に教えてしまうことがあります。生徒たちも教えられた通りにやっていくと正解にたどり着けるので、なんとなくわかったような気になり、満足度は上がるようです。しかしながら、実はここに危ない罠が潜んでいることをしっかりと意識しなければと思っています。

 集団指導の塾などで教鞭をとっていたときには、授業の予習をして、授業展開の筋書き(流れ)と時間、理解させるべきその日の学習ポイントなどを指導ノートに書き込み、自分が牽引役となって毎日の授業を進めていきました。しかし、そのときに感じていたのは、目の前の生徒の誰にも焦点があっていない指導をしているというもどかしさでした。

 例えば1クラス15人の生徒に教えるとすると、かなりの難問をぶつけても15人のうち2~3人は正解に至る解法の流れを答えてくれます。授業はその生徒たちの答えを手がかりにしながら、正解により近づくための質問を投げかけつつ、徐々にこちらの意図する解法プロセスに生徒たちを引っ張って行きます。そして、正解を板書して、解法に至るポイントがわかったような気になっている生徒たちの表情を確認して、授業を終えるのです。しかし、「できて」「わかっている」のは半数から3分の2程度のことが多いのです。

 そんな時代のことを思いながら、「ああ、あの時は教えようとしていたな」と反省するのです。

 何を目的に、今、講師1名対生徒2名の個別指導の塾をやっているかというと、集団指導では決してできない「教えない」指導をしたいと思っているからです。「教えないなら自習と同じじゃん。」という生徒たちの声が聞こえてきそうですが、最終的には塾などからは卒業して、自分の力で課題を見つけ、自立した学習がしっかりとできるようになってくれれば十分だと考えています。そこに行き着くまでの手助けをするのが、個別指導の役割だと信じています。

 では、「教えない」指導における個別指導とは、何を教えるのでしょうか。

 

  それは、「気づき」です。

 

 生徒に問題を出して、それを解かせて、答え合わせをして、できていなければ解き方を説明する。それだけでは、生徒たちの学力は大きくは伸びて行きません。解き方を教えてはダメで、解き方に気づくように、生徒の脳を突いてみたり、引っぱってみたり、かき回してみたりするのです(残酷ですね)。

 例えば、分数のわり算は、何故、割る分数の逆数をかけることで計算するのでしょう。確かに、その通りにやれば正解は出ますし、演習問題を解く上では逆数をかける意味がわからなくても支障はありません。しかし、「ああ、逆数をかけるのはそういう理由なんだ。」と気づくことが本当は大事なのです。 これは「できる」と「わかる」の違いということでもあります。

 私たちが勉強することの中には理屈抜きに覚えてしまえばよいということがたくさんあります。しかし、生徒に「気づく」ことの楽しさと「あっ、こうすればいいんだ。」という発見や納得の満足感を与えることが、最良の指導だと考えています。

 なかなかうまくはいきませんが、「教えない」という指導を目指して日々頭を悩ませ、筋書きのない、ライブ感覚満載の個別指導を今日も楽しみたいと思っています。